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音楽家ヴォーリズ #11  南葵楽堂 〜 ヴォーリズと徳川家2

2006年7月21日

 
〜 『南葵楽堂はかくして1918年(大正7年)7月30日に完成した。正面玄関の上には、南葵文庫(南葵とは南の葵ということで、紀州徳川を意味し、南葵文庫は明治三十二年私の父が開いた日本最初の私立公開図書館である)のマークである捻じ葵から考案された酸漿(ホオズキ)の紋をつけた。 〜

 「頼貞隨想」より抜粋
  昭和31年6月10日発行・徳川頼貞遺稿刊行会
  河出書房・非売品

南葵楽堂の大きさは、間口七間、奥行十五間半、天井の高さ二十八尺、建坪はおよそ百坪。350名を収容できた。
開堂式は同年10月27日にとり行われ、波多野宮内大臣、中橋文部大臣、大隈早稲田大学総長、床次内務大臣、山川帝国大学総長(現在の東京大学)鎌田慶応義塾大学総長をはじめ約200名の人々が参会した。
各界の重鎮が挨拶する中、ヴォーリズも建設実行委員長として流暢な日本語で「この楽堂は単なる記念物として建てられたものではなく、精神的な教養を公衆に与えようという高尚な趣旨によって造られたものである。」と述べた。
南葵楽堂最初の演奏会はその晩の7時から、上野音楽学校教師クローン氏の指揮のもと、東京音楽学校職員生徒とこれに海軍軍楽隊が加わった混成管絃楽団およそ80名によって開始された。
べートーヴェンの大音楽がやわらかな光に包まれた粟色のプラットフォームから響き渡り、その夜を圧した。当時の諸新聞は日本文化への大貢献だといって激称した。

第一次世界大戦の影響で製造が遅れていたパイプオルガンも、1920年(大正9年)春には英国アボット・スミス会社からようやく到着する。
パイプの総数1500余本、鍵盤3段、ストップ36個、最長のダイヤ・ペーソンは16フィートで、送風には7馬力半のモーターを用いることになっていた。
しかし当時の日本にはパイプオルガン技師はおらず、英国人技師を招いて組み立てられた。そこに国内の楽器製造会社から、一人の日本人オルガン技師が完成後の保守管理のために英国人技師の助手として招かれた。彼はまたとないチャンスの中、パイプオルガン建造技術を学び、保守、調律を行うかたわら研究を進め、ついに国産初のパイプオルガン建造に成功。現在まで続く国産パイプオルガン技術の礎となった。彼が勤めていた会社が現在のヤマハである。

そして1920年11月22日および23日の両曰にわたりパイプオルガンの披露演奏会が催された。頼貞はこの音楽会をぜひ一般に広く公開したいと考え、入場券を交付する。
演奏会の前日、入場券を交付する日には多くの学生青年や晴着を着た夫人令嬢が詰めかけ、楽堂の前庭は大変な混雑になった。ついには入場者整理に警官があたるという、当時でも稀有の大にぎわいとなり、ひしめき合う人々は先を争って受付に殺到した。
我も我もという希望に係員も制しきれず、ついには三百枚配布する予定のところ、その倍の六百枚も配ってしまう事態となった。
頼貞は音楽会を再演することにし、切符を受取った人を洩れなく演奏会に招いた。

こうしてヴォーリズの音楽に対する見識は、単なる趣味の範囲を超え、時代の潮流に招来され、徳川家の音楽堂建設というかたちで新時代の象徴となり現れた。

ヴォーリズは初めて教会に連れていかれた4歳の頃、生まれてはじめて聴いたパイプオルガンと聖歌隊の合唱に、歌詞の内容などは全くわからなかったが感動を覚え、それ以来、音楽が神聖な言語になったと語っている。
聴衆にあふれかえる南葵楽堂の中、荘厳なパイプオルガンの響きの中に身を置き、キリスト教信仰の根付かない日本で、キリスト教信仰を基礎とした楽曲が歓ばれ、彼ら手で神を讃美する楽曲が奏でられる音を、ヴォーリズは聴いた。

             音楽家ヴォーリズ おわり

・写真は南葵楽堂の外観と内観

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音楽家ヴォーリズ #11  南葵楽堂 〜 ヴォーリズと徳川家2

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