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音楽家ヴォーリズ #10 南葵楽堂 〜 ヴォーリズと徳川家1
2006年6月23日
東京、今は麻布小学校のあるあたりであろうか。大正の頃、そこに南葵(なんき)楽堂と呼ばれる音楽ホールがあった。
創設者は紀州徳川家16代、徳川頼貞侯爵(1892〜1954)
頼貞は、英国ケンブリッジ大学で音楽を学び、欧州各国でも音楽を研究。古楽器や楽譜の膨大なコレクションを残した。
世界で唯一と言われるフィリピン、ラスピニャス教会の竹のパイプオルガンが朽ちようとしていた時、日本軍の文化顧問としてフィリピンに派遣されていた頼貞が地元カトリック司祭らに働きかけ、私費も投じて修復を進めたことなどで知られる。
1916年、頼貞はロンドンで計画した音楽堂構想を発表する。
設計は英国の著名な設計家、サー・ブルメル・トーマス。
しかし第一次世界大戦の影響や、楽堂に設置する予定のパイプオルガンの製造が一時中止になるなどの事情もあり、計画は遅々として進まなかった。
月日が過ぎていく中、ある日頼貞は友人から「いっそのこと日本にいる適当な設計者に相談して新しいプランを作ってはどうか。 英国のトーマス氏は、まだ日本にきたこともないから、図面においては完全なものが出来るかもしれないが、実際の建築において気候風土や日本の事情に通じていないと、完成した後になって様々な不便が起らないとも限らない」 と助言を受ける。
頼貞はさっそくその可能性を探ったが、当時の日本には、デリケートな設計を必要とする音楽堂の知識を持つ建築家はほとんど居ないと言ってよかった。
そうして頼貞らが協議を重ねる中で、ヴォーリズの名があがることになる。
〜 たまたまヴォーリス君が外国語学校の英語の教師米人ミラー氏の中野の家にきているということを知ったので、早速出掛けた。省線の柏木駅(現在の東中野駅)で下車して田舎道を数丁ゆくと、純米国風の建物があった。この家もヴォーリス君の設計した家だということをあとで知った。家に近づくと、おちついたハーモラウム(オルガン)の音が聞えてきた。サロンに招じられると、一隅にアメリカオーガンがあった。 主人のミラー氏はそのオルガンのかたわらにいる人を紹介した。それがヴォーリス君であった。 夕食をともにしながら私はヴォーリス君にだんだん興味を持った。ヴォーリス君は私の想像したより年も若く、音楽にも理解を持っていた。私は同君に楽堂の設計を依頼することに自信をえた。そこで私はロンドン時代からの理想や楽堂の設計案について話すと、ヴォーリス君は非常に喜んで、自分も長く日本に住んで、日本の土地に愛着を持っているから、自分の好きな音楽に関係があることで日本に残す仕事が与えられるなら、それにこした喜びはないといい、「トーマス氏の設計は設計として、私も一つ設計して参考のために御覧にいれましょう。」と同君は熱心に語った。
待ちに待ったサー・ブルメル・トーマスからの設計図が私の手許に届いたのは一九一六年の秋であった。その設計図は私の希望をよく理解して、私の理想通りにできていた。しかし、日疋君もいったように、建築の実際にあたっては改良すべき処もでてきた。そこでヴォーリス君にトーマス案を示して、これを基礎として日本の実情にそくしたプランを作成してくれるように依頼した。新しい設計図のできたのは一九一七年の春である。私はこれを実施することに決 心した。そして、その年の三月二十四日、麻布飯倉(現在の港区麻布飯倉六丁目十四番地、麻布小学校のある場所)に楽堂を建設すべく、その地鎮祭を執行した。 〜
「頼貞隨想」より抜粋
昭和31年6月10日発行・徳川頼貞遺稿刊行会・河出書房
非売品
・・・次回最終回
写真
上) 徳川頼貞夫妻
下) ミラー(ミューラー)氏邸 東京中野